随時、コラムや解説で難解であるとか、とっつきにくいとおもわれる箇所を補っています
が、いまここで、新たな観点、すなわち文献学的観点からの題材を扱います。
まず死海写本です。
死海写本はなぜ重要でしょうか。すでに述べたように、それ以前は9世紀から11世紀の写本が聖書においては(まとまったものは)最古であったのが、一気に紀元前後の獣皮紙による旧約聖書のほぼすべての写本がみつかったことが、キリスト教にとっても、ユダヤ教にとっても非常に重要な発見でした。
新約聖書成立時代の生の、しかも地理的に非常に近いところからの、直接の文献の発見です。
言うまでも無く、写本というのは書き写されるうちに、相違がでてくるし、また、改ざんや挿入、削除も非常に多く、ひとつひとつが異なるものです。ですから、時代的に源流に近いといえるこの発見は、聖書学にとって決定的な見直しを迫るものです。
ところが、またさらに驚くべきことに、第二次大戦直後、1946年のこの発見から、発見された写本群は膨大な時間が費やされ整理と解読が行われてきましたが、その全貌がCD-ROM等で手にはいるようになったのは1997年からにすぎないのです。日本語で死海写本に関する初のまともな総括的な紹介(つまりスキャンダルな好事家の視点からではない)が出たのは2003年にすぎません。ほんの12年前です。
わたしたちは、恵まれた時代に生まれてきました。ただし、全体の翻訳は全然存在していません。
聖書の研究は、まだまだ始まったばかりなのです。(おなじように、教父や中世キリスト教思想の翻訳もまだまだ始まったばかりで、さらに、Hagiography(聖人伝)は欧米においてもネットでの公開が1990年代に端緒についたばかりです。
ですから、このページで扱おうとする題材自体が、非常に非一般的なごく一部の人達は読んで知っていても、まだまだ遠い世界の出来事として、一般的には正当に認知されていないと考えるべきでしょう。マスコミで取り上げられることだけを正当なことだと思うことは、まことに損なことです。)
さて、ここでは、非常に興味深いのは確かですが)発見のいきさつとか、時代考証、周辺状況については省き、以下の2点に紹介を絞りたいと思います。
1.死海文書の内容と特徴の概観
2.そこから浮かび上がるクムラン宗団(ほぼ確実にエッセネ派)の生活と信条、思想
1.死海文書の内容と特徴の概観
死海写本の解説に入る前に、旧約聖書の文献学的基礎を簡単に見ておきます。
まず、紀元後5世紀から9世紀ごろまでにユダヤ教のマソラ(伝承、の意味)学者によって本文が確定され、発音のしかたが決められ、母音符合がつけられた(ヘブライ語には母音の表記がなく、子音の表記しかそもそもない。後に母音の記号がつけられたことによって、発音と最終的な意味確定が当時なされた)ものを、マソラ本文と呼びます。
現代語訳の旧約聖書は、カトリック教会ではラテン語のVulgata訳を伝統的に採用してきましたが、これはあくまで欧米語で、日本語における翻訳はまだまだ途上段階です。プロテスタント諸教会との話し合いによって決められた新共同訳が使われていますが、2011年になってフランシスコ会訳の合本が出ました。これは、ラテン語のVulgata訳をベースにし、随時マソラや70人訳を参照し場合によっては採用しているという印象です。
ヒエロニムスはマソラを取り入れ、新しい訳を当時取り入れたのですが、たとえば詩編において一般的に使われていたのはギリシャ語訳である70人訳で、ギリシャ教父、そしてアウグスティヌスは70人訳の詩編、旧約聖書をベースにしています。
詩編は70人訳と、Vulgataでは、目を疑うほど違っています。一目瞭然、なのです。
日本語訳聖書がベースにしている原本は、欧米訳をベースにしたりする場合が多く様々で、一概にはいえませんが、マソラ本文を旧約ではベースにする場合が一般的です。
マソラは旧約聖書のうち、最も信頼性が一般的には高いとされる本文伝承を含んでいますが、完全ではありません。それは様々な古代語訳から補わなくてはなりません。
たとえばマソラをベースにしたユダヤ教の現代語訳TANKHはほぼ一ページに一か所、意味不明のヘブライ語がある、と注釈に記載があるそうです。
その意味で気になるのは、マソラと70人訳との違いです。マソラの方が、正当である、とはあくまで当時のユダヤ教学者の立場で考えられているので、初代教会においてマソラが一般的であったと言い切ることは時代錯誤です。なぜなら、マソラの方が後に確定したのですから。
70人訳(ギリシャ語)はディアスポラ(離散)のユダヤ人で、パレスティナから離れ、ヘレニズム社会で離散し、ギリシャ系列文化の中で、次第に祖国のヘブライ語を読めなくなったユダヤ人が愛用していた聖書の翻訳で、紀元前3世紀から1世紀に成立、流用していたギリシャ語訳です。
イエスはアラム語が母語であり、ヘブライ語も当然できましたが、ナザレの約1キロ近くにはギリシャ語が話される街がありましたから、ギリシャ語ができた可能性も高い。4つの福音書記者、パウロ、バルバロはギリシャ語ができ、フィリポも名前からしておそらくギリシャ系でした。
アラム語とは、ペルシャ帝国の西半分で話されていた、オリエント世界一般でもっとも通用した公用語で、今で言えば英語のようなものでしょう。
旧約聖書のアラム語訳をタルグムといいますが、イエスと最初期のキリスト教徒はタルグムを土台として聖書を読んだ可能性が高いと言われています。タルグムは、主の兄弟ヤコブが代表するラビ的キリスト教徒、そしてファリサイ派の文体において特徴的な物言いが含まれていると言われます。パウロの文書にもその痕跡があるそうです。戒律に厳しい系統の文書はタルグム系が多いとのことです。
さて、総数約900の死海写本のうちのうち200が旧約聖書の写本ですが、クムラン写本はヘブライ語、アラム語、ギリシャ語の文書を含んでいます。
死海写本と旧約聖書原文研究の権威であるE. トーブは、モーセ五書の52パーセントがマソラ、4.5パーセントが70人訳、37パーセントがそれ以外のいずれにも属さないとし、そしてモーセ五書以外の旧約においては44パーセントがマソラ、3パーセントが70人訳、それ以外は53パーセントでいずれにも属さない、と分析しています。3パーセントとは、4.5パーセントは、想像以上に大きな数字と捉えるべきです。
どれがいったい、原型にちかいのか、かなり錯綜しているようにみえますが、旧約聖書本文はこの時代にはかなり流動的であった、という事実がまず、あります。
口伝による伝承は、固定化しないのが、世の常です。当然の結果です。平家物語も、非常に多くの異本があり、どれがオリジナル、というしつもんは野暮な質問です。
それだけではなく、さらに死海写本とマソラ、70人訳の比較は、貴重な事実をつたえます。
土岐健治はE. トーブによる比較を紹介しています。
70人訳が、マソラにない本文を伝え、それが後世の挿入や改ざんではなく、むしろオリジナルであったことがわかった、むしろ、マソラの方が抜け落ちがあった、一例を伝えています。クムラン写本のヘブライ語と70人訳にはあるのに、マソラにはない箇所です。クムラン写本の発見によって、70人訳の原典性が高められる箇所は、これだけではなく、数多くあるとのことです。
サムエル記上2,7-8です。
「主は人を貧しくし、また、富ませ
低くし、また、高められ
弱り果てた人を塵の中から立ち上がらせ
貧しい人を芥の中から引きあげられます。
主は彼らを高貴な人々とともに座らせ
栄光の座を継がせてくださいます」
そのあと、マソラにもないが、(ついでに言うと、新しいフランシスコ会訳を含め、日本語訳聖書のどれにもおそらくない)、70人訳とクムラン写本にある箇所です。
「主は祈る人に対して祈りを与え
義人たちの年を祝福されます」
以前お伝えしたマリアの賛歌のベースになっているこの箇所に、このようなものがあったと知ると、私などは背筋がぞくぞくします。祈る人に対して祈りを与え、というのはイエスをどうしても思い浮かべるし、義人たちの年を祝福されます、というのは「イザヤ書の「主は油をそそがれた。囚われ人に開放を・・主の恵みの年を祝福される」という、これもまた以前に紹介した、イエスが巻物を神殿で取り上げ、朗読した箇所をただちに連想するからです。
また、ここでは煩瑣になるので紹介しませんが、、サムエル記上11章の前に、あるエピソードが70人訳とクムラン写本には挿入されていています。
それまで、サウル王がヤベシ・ギリアデをアンモン人から救ったという話において、ナハシは唐突にヤベシ・ギリアデを包囲するのか意味がわからなかったが、これによって理由がわかるようになりましたということです。
とはいえ、70人訳がいつも原典だ、としてしまうのは誤りで、行き過ぎ、単純化は危険です。
しかし、批判的なテキスト分析により、、例えば70人訳の詩編を詳しく調べ、マソラと死海写本を詳しく比較研究すれば、大きな成果があられるのではないか、と私は想像しています。
心を込めた読みと並行して、冷たい文献学的批判を怠ってはならず、それはむしろ読みの深まりを強化していくものだと考えます。
(続く)